今回は、前回に触れた柳生新陰流について、色んなことを書いていきたいです。
徳川家康が愛した武道とはどのようなものであったかです。
武道といえば、まず、剣道を思い出す人が多いと思う。
しかし、この新陰流は、兵法なのです。
この始まりは、茨城県にいた上泉信綱です。これを引き継いだ、弟子が、柳生宗厳です。その後の名前が柳生石舟斉です。
この兵法は、術理(ジュツリ)を大切にしています。
これは、技術と理論の合わせた言葉です。
技術は、後に話しますが、理論に焦点を合わせて、いきます。
菩提寺(柳生家を代々引き継ぐ寺)は、東京にある廣徳禅寺、読んでわかるように、禅寺です。
新陰流の心の教え、つまり心法になったのは、禅で有名な沢庵禅師です。このように禅の教えがあります。この沢庵禅師のお墓は、品川にある東海寺です。
その心の術は、平和です。つまり、戦いの世の中を、無くす。戦さをしない世の中を目指した心理があります。
では、技術とは、どのようなものでしょうか。昔の戦いは、日本刀でした。これは、相手を殺しあうものでした。刀を持った相手に対して、刀を持たずに戦います。新陰流は、袋竹刀(フクロシナイ)を使います。
これが、袋竹刀(フクロシナイ)です。


中は、剣道より小さく竹刀(シナイ)が、分割されて、よりしなやかです。その上に、革をかぶせてあります。その革に漆(ウルシ)が塗ってあります。これが、袋竹刀(フクロシナイ)です。
そうして、脚の運び方は、すり足です。これは、相手に動いていないように見せかけて、実は、動いているのです。これは、新陰流の基本で、すり足は、非常に大切です。剣を使う、脚の開き方は、腰をバネのようにして動きます。この腰の開き方が、非常に難しくて、習得するのは、時間がかかります。このような脚の運びを「えます足」と言います。
では、この新陰流の、戦わない武道とは?とても、気になりますね。
相手の反対をする。これが基本です。相手の動きを見ながら、自分が動く。常に反対に、動く。相手を惑わせます。長く、続けるのです。相手が、刀を持って、殺し合いになる場面でも、決して、刀を持ちません。そうして、相手を惑わせます。それを続けると、相手の気力がなくなります。そうして、相手が根負けします。そうして、相手を殺すことなく、平和になる、といった武道、兵法です。
京都の紫雲村で、徳川家康はこの兵法を知りたいと思い、柳生石舟斎と柳生宗矩(ムネノリ)(石舟斎の五男)、呼びました。そこで、徳川家康に呼ばれた二人は、家康と石舟斎と試合をしました。宗矩は、横で付き添っていました。家康は、木刀をもち、石舟斎は、素手でした。この試合の結果は、最後は、家康が木刀を相手に取られて、負けました。
これは、1594年5月3日のことでした。
このようにして、家康は、この柳生新陰流を取り入れ、見事に天下太平の世の中にしました。天下太平とは、世の中が、極めて穏やかに治まることです。
これは、関ヶ原の戦い(歴史上最も激しい闘いとされている)1600年10月21日よりも、早い時期で、これは、徳川家康が時間をかけて、時期を待って、世の中を穏やかにしたいという、思いが、長くあったことを示しています。
私の身近に柳生新陰流を習った人がいました。心から感謝します。
今回は、柳生新陰流についてのお話でした。


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