
鹿児島市の中心を流れる甲突川には、上流から、「玉江橋」「新上橋」「西田橋」「高麗橋」「武之橋」のアーチ橋が、5つあり、「甲突川の五石橋」と呼ばれていました。
これらの橋は、1860年ごろ薩摩藩の城下町として整備されたものです。薩摩藩の財政は、豊かでした。その建造にあたったのが、岩永三五郎が、熊本県から招かれました。
主に、中国から伝わった架け橋技術。それと、城の土台になる石垣技術。この二つの技術が交わり、独自に発展をした日本を代表する5つの石橋で、150年間、実際に使われていました。
1993年8月6日の集中豪雨により、2つの橋は流され、残り3つの橋が無事に残りました。その3つの橋も、破損が激しかったのです。
甲突川を改修工事するときに、非常に多額のお金をかけて、3つの橋が、復元、移築されました。2つは、祗園之洲公園に移設、写真の橋は、石橋記念公園の中にあります。そこには、石橋記念館があります。
復元されたものですので、一つひとつ、丁寧に組み上げられました。轍(わだち)や、石の継ぎ合わせられたところもあり、非常に丁寧に復元されています。

このように、一つひとつ補修されて組み上げられています。

当時の技術で、石をこのように丸い筒状にするには、非常に高い技術が必要でした。

これは、「西田橋御門」です。隣接している祇園之洲公園には、西南戦争の戦没者慰霊碑や砲台の跡があります。
近くには、フランシスコザビエルの記念碑があります。1549年日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン出身のキリスト教宣教師。
ザビエルが、鹿児島に来て初めて渡ったとされる橋が、この公園の近くにあるそうです。
来日したザビエルは、日本語を鹿児島で習得しましたが、地方訛り(方言)のある日本語を習ったために、キリスト教を伝えるために、日本国内で活動するのに、苦労したそうです。
そんな話が、この鹿児島では、語り継がれています。近隣には、韓国兵の慰霊碑もあります。近隣諸国との関係は、非常に難しいものを感じます。
西南戦争とは、1877年2月15日から9月24日まで続いた日本国内の最後の内戦。「明治維新」を推進した西郷隆盛が、起こした戦争。これにより、武士という制度が無くなった。

西郷隆盛の像。鹿児島市内にある。

山手の方にある「西郷隆盛洞窟」西郷隆盛が、政府軍に追い詰められてこの洞窟に身を隠したとされる。

内部の洞窟の様子です。

ひっそりとして、訪れることも少ない西郷隆盛の終焉の地。「晋(しん)どん、もうここでよか」
2弾の銃弾が、西郷隆盛の腰と大腿部に撃ち剥きました。城山洞窟を出てわずか300m,650歩で動けなくなりました。
「晋どん、もうここでよか。」東を向き、皇居に平伏し、拝む西郷隆盛に別府晋介(切腹する人に付き添って首を切り落とす役人)によって、首を振り落とされました。
1877年9月24日。
西郷隆盛を敬愛し、私学生徒を中心とした反政府勢力となった薩軍は、2月15日に熊本に50年ぶりの大雪に軍を進めました。それは、70日に及びました。熊本城の攻防、田原坂の戦に敗れ、人吉、宮崎、延岡、に追われ、軍は解散した。軍の幹部は、故郷の鹿児島を死に場所に選び、山脈を伝うような非常に苦難をして、鹿児島に戻った。
岩崎谷の銃声がなくなり、西郷隆盛の死体が発見された時、政府軍の総司令官、山県有朋(やまがたありとも)中尉は、「翁は(相手を敬う言葉)、まことの豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ。」と言葉を残しました。そうして、長い時間黙祷したそうです。

西郷隆盛洞窟から山手に登ると、城山がある。ここからの眺めは、非常に良い。錦江湾と桜島が眺められる。一度は、行って見たいところです。ここで、西南戦争の最後の戦いが行われました。
巨万の富を持った、薩摩藩。最後はこのようにして政府に吸収されました。