三重県松下幸之助が通った椿大神社のスピリチュアルと教育勅語から感じる日本Japan felt from the spiritual and Imperial Rescript on Education of Tsubaki Grand Shrine, where Konosuke Matsushita of Mie Prefecture attended

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庚龍神社/Kanoeryu Shrine

翻訳機能がこのサイトはあります。日本語以外は、これをお使いください。This site has a translation function. Please use this except for Japanese.

まずは、椿大神社のほど近くにある、庚龍神社(かのえりゅう)祭ってあるのは、金龍龍神、白龍龍神、黒龍龍神。この龍神社は、樹齢400年と伝えられるもみの木を神社としました。1980年(庚申)5月御社殿が鎮座され、その年の干支により、この神社の名前を庚龍神と命名されました。その後、老朽化が進み新社殿が2004年(申申)3月奉献され鎮座しました。

椿大神社は、伊勢国一の宮、猿田彦大本宮です。

主祭神 猿田彦大神(さるたひこおおがみ)

相殿神 皇孫 瓊々杵々姫命(にしぎのみこと)

御母 栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)

前座 行満大明神(ぎょうまんだいみょうじん)

この神社は、高山入道ケ嶽(がく)/奥の宮、短山椿嶽(がく)/大日山を天然の社とした猿田彦大神が、安住地であった太古の盤座から御船盤座に移り、その時以来、神社の境内を大霊場として人々を守り導かれる国土を守護する猿田彦大本宮です。

創建は、第11代、垂仁天皇御代27年8月(紀元前3年)、倭姫命のご神託により、道別(御みちびき)の社とされました。全国の猿田彦大神の総本宮です。猿田彦大神(別名、椿大神)は、天皇陛下の御先祖の瓊々杵尊が地上に君臨されるにあたり、天の迷いやすいところまでお迎いに上がられ、「みちびきの祖神(御先祖の神)」と奉られる国土を守護する祖先祖の神で、色んな苦難を取り払う御先祖の神です。

神の功徳は、この地上で生きるために必要な衣食住をはじめ、家を守り、祓い清めて安心して住むことのできる生活の導きも、すべて椿大明神、猿田彦大神が守って下さるからです。「この地にわれ(天孫)の天降りしは、ことごとく皆巷の神(猿田彦大神)との幽契(目に見えない神仏との約束)に基づくものなり」(古語拾遺より)

このようなことが書かれていました。

獅子堂/Shishido

ここで人気のあるのは、なんと言っても交通安全のお祓いです。ブルーの自動車が見えます。これは、お祓いを待っています。自動車を神主が実際に自動車の扉開けたりしてボデイにお祓いをします。近くに鈴鹿サーキットもあり、車好きの集まるこの椿 大神社は、大人気です。

カエル/Frog

お金がカエル、とか言ってご利益があります。

断りの鳥居/Torii of refusal

江戸中期(1700年ごろ)、神戸城主本多候が、椿大神社の御神木を伐採して城を築いたところ、1年後に一夜にして城が消失してその神威を怖がり奉納した鳥居。

狛犬/Guardian dog
恵比寿、大黒/Ebisu, Daikoku

恵比寿は、商売繁盛。大黒は、お金持ちになる縁起の良い神様。

椿大神社本殿/Tsubaki Grand Shrine main shrine

ここで色んなお願いが叶いますように。

鉄砲柱/Gun pillar

これは、お相撲さんが、手をついて練習する柱です。奉納者は、千葉県松戸市佐渡ケ嶽(がく)部屋 佐渡ケ嶽(がく)満宗親方(元琴ノ若関。

社務所/Office

ご祈祷をしていただけます。神様にお祈りしていただけます。

さざれ石/Sazareishi

国歌に出てくるさざれ石です。磨き上げたさざれ石は、初めてここで見ました。

かなえ滝/Kanae Waterfall
椿岸神社/Tsubakigishi Shrine

この社の主祭神天之鈿命は、天の岩所開きの神話の中でご活躍された神様と知られ、天孫(天照大神の御孫)瓊々杵尊が日本の国土に天から降りたまう時、共に神様としてうけたまわる。天孫一行を天の迷いやすいところに出迎えた国土を守護する神、猿田彦大神(椿大神社の主祭神)と共に、宮崎県の高千穂峯に導いて我が国の国を開き始め、その基礎を築かれた神様です。

その後、猿田彦大臣と夫婦になり、それぞれにこの伊勢国、鈴鹿椿ケ嶽(がく)高山、短山、(短山国見岳、高山入道ケ嶽(がく)、短山椿嶽(大日山))の霊地にお帰りになり、猿田彦大神の妻の神、椿岸大明神として、鎮祭、つまり神様を鎮め固めるための祭儀をして、今に至っています。鎮魂の神、芸道の祖先である神としてその神の働きは、ずっと輝き、芸能や茶道、華道、書道などあらゆる技を取得してますます良くなったり、縁結び、夫婦円満を守り導き、神様の通力による不思議なしるしご利益があり、昔から信仰されています。「椿岸神社縁起」によれば、この別宮を猿田彦大神の祀る(まつる)「上椿社」、こちらは「下椿社」と呼ばれています。垂仁天皇の御代27年(紀元前3年)に「上椿社」「下椿社」に奉られた延喜式(えんぎしき、平安時代前期(800年ごろ)、醍醐天皇朝の年号)の古社です。

秋の例大祭には、上椿社から神輿(しんこし、神様を2本の長柄で肩に担いで乗せる乗り物)が出て、猿田彦大神がお出ましになる、「神幸祭」があり、鈿女本宮に旅をして、翌日には行幸啓(ぎょうこうけい)つまりは、帰ること。「還幸祭」が行われます。

このような祭が今も行われています。

古事記や日本書紀には、よく天皇の家系などに言及があります。私は、非常に皇族が現存し、続いていることに驚きを隠せません。一年に一回会えるのは、日本の七夕まつりのようで、なんとも言えないロマンチックな感じがします。

扇塚/ Ougizuka

儀式、舞などに用いる扇は、昔から神を招待して献上するものとして芸道を志す者の心のよりどころとされて、一つづつ芸を磨く過程は必携のものであります。芸の道に終わりが無いように、扇に感謝と慰霊を込めてこの扇塚は建てられました。芸の道にご精進されます人たち、常に新たな気分で芸の修行、稽古に頑張って、古くなった扇は感謝を込めてこのところに納め、新しい扇にて芸道の祖先である神、天之鈿女命のさらなる末広の上達を願ってください。

このような一文が添えられ、そこには、色んな著名な方の名前も刻まれていました。扇とは、芸に必要なものであることに初めて気付かされたものです。

松下幸之助社/Konosuke Matsushita

私は、松下幸之助、パナソニックの創始者に関する本をよく読みました。電球から始まった会社は、今や世界的に知られる会社になり、今やテスラの電気自動車の燃料電池を供給しています。

松下幸之助社の横に茶室、鈴松庵があります。茶亭とそれを眺める日本庭園は、松下幸之助が寄付しました。石碑があり日付けは、1975年元旦になっています。

二宮金次郎像/Statue of Kinjiro Ninomiya

この二宮金次郎像は、1870年代に椿尋常小学校(現在、椿小学校)から寄贈されました。経年劣化により、ここに安置し奉られました。新しい二宮金次郎像が小学校に建てられました。

教育勅語碑/Imperial Rescript on Education

ここには、教育勅語が書かれています。

勅語の12徳

孝行 子は親に孝養(孝行して親を養うこと)をつくしましょう

友愛 兄弟、姉妹は仲良くしましょう

夫婦の和 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう

朋友の信 友だちはお互いに信じ合ってつき合いましょう

謙遜 自分の言動をつつしみましょう

博愛 広くすべての人に愛の手をさしのべましょう

修学習業 勉学にはげみ職業を身につけましょう

智能啓発 智徳(知ること)を養い才能を伸ばしましょう

徳器成就 人格の向上につとめましょう

公益世務 広く世の人々や社会の為になる仕事にはげみましょう

遵法 法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう

義勇 正しい勇気をもってお国のために真心をつくしましょう

明治維新により文明開花の名のもとに欧化思想が全盛を極めるあまり、自国の学問をないがしろにして、西洋偏重の教育の実情にご憂慮された明治天皇は、1890年10月30日「教育に関する勅語」をお示しになりました。

この勅語は、我が国の建国の由来と、歴史に顕れた国柄の美しい特色を述べ、これを教育の根源とすることを宣明した上で、国民の誰もが心がけ実行しなければならない12の徳目を掲げて、祖先からの教訓として、歴史的に国際的にも普遍的な道徳であることを簡潔な(表現が簡単で要領を得ていること)名文で示されています。

そのように、教育の基本的指針、国民の人格形成の規範として、大切な役割を果たしてまいりましたが、1945年の敗戦による日本民主化政策の美名の下に、教育の現場でその内容が取り上げられることはほとんどなくなりました。

戦後、早や65年が経過した今日、物質的豊かさの反面、戦後教育の荒廃は憂えるものがあり、多くの社会問題を抱え、道徳教育の必要性が論じらております。

今こそ、勅語に込められている意義を再認識し、伝統教育の良さを発展させ、実践することの大切さを願い、ここに本年教育勅語出て120周年を迎えるにあたり記念の石碑を建立しました。

2010年10月30日 伊勢国一宮 椿大神社

教育勅語は、私は、心にしみました。現代においても非常に忘れ去られた何かがあると思っています。道徳のような教育で、自己本位ではなくもっと社会が安定するように、書かれています。

これは、なかなか実行できないことも多いと思います。ですが、この教えは、日本の社会制度の考え方に批准していると思います。何故なら、少子高齢化社会の中で、子供が親を面倒を見ることは、非常に負担が多いです。ですから、社会制度の中で、色んなことを補填していくことが大切だと思うのです。

日本国憲法第3章、第12条には、自由及び権利の保持責任、乱用禁止、利用責任として、こう定められています。この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。

このように日本国憲法の第3章の国民の権利及び義務に定められており、これは、非常に道徳のある憲法で、いかに日本の国家が日本国民を道徳的に支え合うことを示している条文です。私は、この日本国憲法の第3章は、非常に心に響くものを感じています。

どんな人であっても、社会を生きていくには教育は大切であり、これを憲法の基本的人権の尊重にも規定されているからです。ですから、色んな人生があっても、勉強を忘れずにいたいです。

日本国憲法第3章第23条には、学問の自由が定められており、学問の自由は、これを保障する。

又、第3章第26条には、教育を受ける権利、義務教育が定められています。すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力におうじて、ひとしく教育を受ける権利を有する。②すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を負う。義務教育は、これを無償とする。

日本国憲法は、教育を大事にしています。この憲法第3章は、日本国憲法の大きな柱でもあります。

人は、時に、傲慢になります。自分では、なかなか自分のことはわからないものです。私は、やはり未熟だな、って自分で思うことがあります。だから、もっと、謙虚になることが必要があると、いつも反省しています。満足できない自分がいます。

さざれ石/Sazareishi

この石は、通称「さざれ石」と言われ、岐阜県揖斐郡春日村の産。小石が永年(長い年月)のうちに集結するところの誠にめでたい石である。天皇の大御世のいよいよ栄えることを言葉で祝い、祈り、この石のごとく多くの島で歌われ、後に一部改作され、国歌になった。原歌作者藤原石位左衛門の子孫49代目が、春日村小宮神に定住される。歌人。石聖小林宗一により発見され県指定天然記念物である。

1994年10月吉日 渡辺 義勝

日本には、色んなところにさざれ石があります。蓄積されていく素晴らしさは、このさざれ石の魅力でしょう。積み上げていくことの努力と成果がこのさざれ石に刻まれています。これは、日本人の気質なのかもしれません。

観光スポット!文学を感じる石山寺とランチを楽しむ旅Tourist attractions! A trip to enjoy lunch with Ishiyama Temple where you can feel the literature

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石山寺は、滋賀県大津市にあります。この石山寺は、西国33所観音巡礼の寺です。閻魔(えんま)大王は、悪いことをこらしめる王様です。この苦しみを救うのが観音様です。その救いを求めて観音菩薩のある寺院を定めたのが徳道上人です。その観音様の慈悲の心を求めるのに、日本最古の西国33所観音巡礼があります。この石山寺は、その一つです。この地域は、大阪、京都、和歌山、奈良、兵庫、滋賀、岐阜にあります。西国巡礼は、2018年で、1300年続いています。

石山寺は、13番目の札所です。

Ishiyama Temple is located in Otsu City, Shiga Prefecture. This Ishiyama Temple is a temple of Kannon pilgrimage to 33 places in the West. Enma the Great is the king who does bad things. It is Kannon who saves this suffering. It was Tokudo Shonin who established the temple with the Kannon Bodhisattva in search of that salvation. There is 33 Kannon pilgrimages in the oldest western country in Japan to seek the mercy of Kannon. This Ishiyama temple is one of them. This area is located in Osaka, Kyoto, Wakayama, Nara, Hyogo, Shiga and Gifu. The Western pilgrimage is 2018 and has continued for 1300 years.

Ishiyamaji is the 13th temple.

東大門/Todaimon

東大門は、三間一戸の八脚門(はっきゃくもん)入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺きの建物です。正面の左右に仁王像を安置しています。

現存の門は、1190年の建築と言われていますが、1596-1615年に新築同様の大規模な修理改修がありました。天井下の板カエル股、妻飾りの懸魚(けぎょ)、棟を支える両端に隠れた装飾をしていること。など、慶長期の特徴があります。また、隅を除いて尾垂木(おだるき)(桝組み立てが斜めに突出している材料のこと)がない特徴があります。1906年に国の重要文化財に指定されています。

Todaimon is a three-storied house with an eight-legged gate (Irimoya-zukuri) and a main tile-roofed building. The statues of Nio are enshrined on the left and right of the front.

The existing gate is said to have been built in 1190, but in 1596-1615 there was a major repair and renovation similar to a new construction. The crotch of the board frog under the ceiling, the hanging fish of the wife decoration, and the decoration hidden at both ends that support the ridge. There are characteristics of the Keicho period. In addition, except for the corners, there is no tail tree (a material in which the box assembly protrudes diagonally). It was designated as a national important cultural property in 1906.

金剛力士像/Kongorikishi statue

よく手入れされた庭は、その枝ぶりには、非常に驚かされます。A well-maintained garden is very amazed at its branches.

くぐり岩/Kuguriiwa

ここをくぐると願い事が叶うとされています。

境内は、石山寺という名前の由来になったほどの珍しい石があります。硅灰石からできています。これは、天然記念物に指定されています。

It is said that your wish will come true if you go through here.

In the precincts, there are rare stones that are the origin of the name Ishiyamaji. It is made of silica ash stone. It is designated as a natural memorial.

長い石段を登ります。Climb a long stone staircase.

石山寺多宝塔/Ishiyamaji Tahoto

多宝塔は、下層が、方形、上層が円形の平面に宝形造(ほうぎょうつくり)の屋根を載せた二重の塔です。石山寺多宝塔は、源頼朝(みなもとのよりとも)の建立と伝えられ、1194年「建久五年」と金属や石に刻まれた現存最古の多宝塔です。上層は小さく、軒は緩く長く流れ、上下の均整がとてた美しい姿をしています。また、内部の四天柱には柱絵があり、そこには、創建当初からの仏像や文様を見ることができます。(重要文化財)須弥壇(しゅみだん)の上には快慶(かいけい)作の大日如来坐像(重要文化財)を祀っています。1951年6月、国宝に指定されました。

The Taho Tower is a double tower with a treasure-shaped roof on a flat surface with a square lower layer and a circular upper layer. The Ishiyamaji Tahoto is said to have been built by Minamoto no Yoricho, and is the oldest surviving Tahoto carved in metal and stone in 1194. The upper layer is small, the eaves flow slowly and long, and the top and bottom are well-proportioned and beautiful. In addition, there is a pillar painting on the four heavenly pillars inside, where you can see Buddhist statues and patterns from the beginning. (Important cultural property) On the Sumidan, a sitting statue of Dainichi Nyorai (important cultural property) made by Kakei is enshrined. It was designated as a national treasure in June 1951.

御神木/Mikami tree
石山寺毘沙門堂/Ishiyamaji Bishamondo
石山寺御影堂/Ishiyamaji Mikagedo

ここに弘法大師が祀られていました。774年に香川県に生まれたとされています。とても勉強熱心で、遣唐使で、唐の国にも行ったそうです。四国地方は、温暖で色んな作物が四国内でできるので、非常に恵まれた立地です。ただ一つ、悩みがありました。雨があまり降らないので、弘法大師は、四国に、たくさんのため池を作るように指導しました。そうして、雨水をたくさんためる池を作りました。この池は、近代においては、不要になったので、四国にあった沢山のため池は、現在はありません。このように勉強熱心だった弘法大師が祀られており、この石山寺は、少し違う印象が、広がってきます。それは、文化、文学が感じられたのです。

Kobo Daishi was enshrined here. He is said to have been born in Kagawa prefecture in 774. He was very enthusiastic about studying, was a messenger to Tang, and went to the country of Tang. The Shikoku region is a very blessed location because it is warm and various crops can be produced in Shikoku. There was only one problem. It doesn’t rain much, so Kobo Daishi instructed Shikoku to build a lot of ponds. Then he created a pond to store a lot of rainwater. This pond is no longer needed in modern times, so there are no more ponds in Shikoku now. Kobo Daishi, who was enthusiastic about studying in this way, is enshrined, and this Ishiyamaji has a slightly different impression. It felt culture and literature.

本堂/Main hall

本堂の横には、「源氏の間」がありこれは、国宝に指定されています。Next to the main hall, there is “Genji no Ma”, which is designated as a national treasure.

源氏の間/Between Genji

紫式部が「源氏物語」を執筆するためにこもったとされる。この紫式部がこもったこの部屋は、「石山寺縁起絵巻」の他の場面、他の文献から天皇、皇族、貴族、身分の高い僧侶、などの使用する部屋で、特別待遇の紫式部でした。これは、新しい物語の制作が非常に望まれており、これは、紫式部の任務でした。この部屋は鎌倉時代には、すでに「源氏の間」と呼ばれていました。「源氏の間」の最も古い資料は「石山寺縁起絵巻」です。

It is said that Shikibu was withdrawn to write “Genji Monogatari”. This room filled with this purple ceremonial club was a room used by other scenes of “Ishiyamaji Engi Emaki”, emperors, royal families, aristocrats, high-ranking monks, etc. from other literature, and was a special treatment purple ceremonial club. It was highly desired to create a new story, which was the mission of the Purple Shikibu. This room was already called “Genji no Ma” in the Kamakura era. The oldest material of “Genji no Ma” is “Ishiyamaji Engi Emaki”.

石山寺三十八所権現社本殿/Ishiyamaji 38th place Gongensha main shrine
経蔵/Keizo

経蔵の下には、腰掛け石があります。この岩に座ると安産すると言われています。Below the Keizo, there is a stool stone. It is said that sitting on this rock will give you a safe delivery.

腰掛岩/Sit rock
紫式部供養塔/Purple Shikibu memorial tower
松尾芭蕉の句碑/Matsuo Basho’s monument

松尾芭蕉(1644-1694/11/28)は、この地に訪れ、「源氏の間」を俳句にしました。

「あけぼのはまだむらさきにほととぎす」夜明け前の紫色の美しさの空と美しいほととぎすの鳴き声を重ね合わせた、非常に美しい俳句ですね。けれども、句碑は、長い年月で、もう、その刻まれた字を読むことはできません。

Basho Matsuo (1644-1694/11/28) visited this place and made “Genji no Ma” a haiku.

“Akebono is still murasaki ni hototogisu” It’s a very beautiful haiku that superimposes the beautiful purple sky before dawn and the beautiful cry of hototogisu. However, the monument has been inscribed for many years and can no longer be read.

めかくし石/Mekakushi stone

目隠しをしてこの石を完全に抱けたら、諸願成就(しょがんじょうじゅ/色んな願い事が叶うこと)と言われています。

It is said that if you blindfold and hold this stone completely, your wishes will be fulfilled (shoganjoju / various wishes will come true).

比良明神影向石(ひらみょうじんようごうせき)/Hiramyojin Yogoseki

東大寺の僧侶、老弁僧正(ろうべんそうじょう)(689-773)は、聖武天皇に東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命じられ、金峯山(きんぷせん)にこもって、金剛蔵王(こんごうざおう)の夢告を受け、この石山に訪れました。するとこの岩の上で、老人が座って釣りをしていて、お告げの場所が、ここであることを老弁僧正に告げました。この老人は、近江の地主でした。その地主を比良明神と呼ばれています。この石は、このことから、「比良明神影向石(ひらみょうじんようごうせき)」と呼ばれています。

Roben Sojo (689-773), a priest of Todaiji Temple, was ordered by Emperor Seibu to procure the gold necessary for the construction of the Great Buddha of Todaiji Temple. I visited this Ishiyama after receiving the dream of (Kongo Zaou). Then, on this rock, an old man was sitting and fishing, and he told the old-fashioned monk that the place of the announcement was here. This old man was the landlord of Omi. He calls the landlord Hira Myojin. For this reason, this stone is called “Hira Myojin Yogoseki”.

大黒天/Daikokuten

福をもたらす神様。God who brings good fortune.

茶所/Teahouse

とても、文化や文学の大切さを感じる寺院です。まさに、紫式部がここに居て「源氏物語」を書き綴って居たことは、非常に感激しました。現代においても、色んな人や国によって現代語訳され、また、映画になったり、未だこの物語は世界のベストセラーです。また、弘法大師や松尾芭蕉など、色んな教養のある方のご縁があります。天然記念物の石に囲まれた石山寺は、非常に勾配があり、階段がたくさんあります。ひと息つきながら、時間をかけて、参拝ください。

It is a temple where you can feel the importance of culture and literature. I was very impressed that Murasaki Shikibe was here and wrote the “Genji Monogatari”. Even in modern times, it has been translated into modern languages by various people and countries, and it has become a movie, and this story is still the best seller in the world. In addition, there are connections with various educated people such as Kobo Daishi and Matsuo Basho. Surrounded by natural memorial stones, Ishiyama Temple is very sloping and has many stairs. Please take your time and worship while taking a break.

石山寺には、駐車場(有料)に入るとたくさんのお店があります。そこで、湖舟(こしゅう)に行きました。10:00-17:00,17:00からのナイト時間は予約のみ。休日は特に定めて居ないので、事前に確認は必要です。電話077-537-0127,ミシュラン三つ星料亭で修行した料理人が居ます。ここでは、名物は、しじみ釜飯が有名です。私が、「おすすめは?」と尋ねると、「うな重です」と答えがありました。うな重ではなく、私は、うな丼をオーダーしてみました。ここでの食事は、時間を要します。オーダーしてから、調理するからです。だから、とても美味しいです。うなぎが、炭火で、程よくおこげがあり、香ばしく、それで出来立てですから、非常に美味しくいただきました。お店は時間に余裕を持って来店されることをおすすめします。

At Ishiyamaji, there are many shops when you enter the parking lot (charged). So I went to Koshu. Reservations only for night hours from 10:00 to 17:00 and 17:00. There are no specific holidays, so confirmation is required in advance. Phone 077-537-0127, Michelin There is a chef who trained at a three-star restaurant. Here, the specialty is Shijimi Kamameshi. When I asked “What do you recommend?”, The answer was “Unaju.” Instead of Unaju, I ordered Unadon. Eating here takes time. After ordering, it will be cooked. So it’s very delicious. The eel was charcoal-fired, had a moderate amount of scent, was fragrant, and was freshly made, so it was very delicious. We recommend that you come to the store with plenty of time.

織田信長の築いた安土城跡は、天主閣ができてからわずか3年の城でした②The site of Azuchi Castle built by Nobunaga Oda was only three years after the castle tower was built ②

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二の丸跡/Ninomaru trace

ここは、二の丸御殿跡と織田信長の本廟があります。本廟は、天主跡の西側にあります。重臣、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、1583年1月に年賀の為、3人の僧侶を連れて城に登り、2月には、安土城二の丸の跡に、太刀、烏帽子、直垂などの、遺品を埋葬して、本廟としました。6月2日の一周忌には、織田一族や家臣を集めて法要を盛大にしました。

Here you will find the ruins of the Ninomaru Palace and the main mausoleum of Nobunaga Oda. The main mausoleum is on the west side of the ruins of the heavenly lord. Hidekichi Hashiba (Hidekichi Toyomi), a senior vassal, climbed the castle with three monks for the New Year in January 1583, and in February, at the site of Azuchi Castle Ninomaru, a sword, a crow hat, a straight hanging, etc. The relics were buried and made into the main mausoleum. On the first anniversary of June 2, the Oda clan and vassals were gathered to make the memorial service grand.

本廟/Main mausoleum

ここが安土城本丸御殿の跡です。階段を登ると天主台にいけます。ここは、千畳敷と呼ばれています。それぐらい広い場所で、東西約50m,南北約34mのこの細い敷地は、天主台、本丸帯郭(おびくるわ)、三の丸の石垣で囲まれています。南の方は、展望があります。

1934年と1999年の発掘調査で、東西34m*南北24mの範囲で碁盤目状のに配置された119個の建築基礎石が発見され、約2.18mの間隔で自然礎石の大きな焼けて破損された跡があります。一辺、約36cmの柱跡が残るものもありました。当時の住宅は、柱は、12-18cmの柱を1.97cm間隔で建てる武家屋敷とは、かなり違っており、とても手間暇をかけた豪勢な造りでありました。礎石の配列状況から、中庭を挟んで3棟であったと考えられています。

これは、天皇の住まいである内裏清涼殿(だいりせいりょうでん)に非常に似ていることがわかりました。安土城に天主のすぐ下に清涼殿が建てられたのは、「信長公記」には、天主近くに「一天の主、万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が、造られたことを記載されています。織田信長の2回にわたる安土城の天皇行幸は実現しませんでした。この本丸御殿は、天皇行幸のために織田信長が用意した行幸御殿だったと言われています。

天皇の偉大さがわかる、逸話ですね。二条城にも、逸話があります。

二条城見どころ実際に行った筆者が簡単に説明します.The highlight of Nijo Castle The author who actually went to explain briefly.

This is the site of the Azuchi Castle Honmaru Palace. You can reach the castle tower by climbing the stairs. This is called Senjojiki. This narrow site, about 50m east-west and about 34m north-south, is surrounded by a castle tower, Honmaru belt, and Sannomaru stone wall. To the south, there is a view.

Excavations in 1934 and 1999 found 119 this building foundation stone, which was arranged in a grid pattern within a range of 34m east-west * 24m north-south, and was severely burned and damaged by a large natural foundation stone at intervals of about 2.18m. There are traces. Some of them had a pillar mark of about 36 cm on one side. The pillars of the house at that time were quite different from the samurai residences where 12-18 cm pillars were built at 1.97 cm intervals, and it was a powerful structure that took a lot of time and effort. From the arrangement of the foundation stones, it is believed that there were three buildings across the courtyard.

It turned out to be very similar to the Emperor’s residence, Uchiura Seiryoden. The Seiryoden was built in Azuchi Castle just below the heavenly lord. There is a building, and it is stated that the “Imperial Palace Room” was built inside. Nobunaga Oda’s two visits to the Emperor of Azuchi Castle were not realized. It is said that this Honmaru palace was the Yukiyuki palace prepared by Nobunaga Oda for the Emperor Yukiyuki.

It’s an anecdote that shows the greatness of the emperor. Nijo Castle also has an anecdote.

本丸/Honmaru
本丸から天主閣への階段/Stairs from Honmaru to Tenshoku

石段を登れば、そこは、天主閣です。If you climb the stone steps, you will find the Tenshoku.

天主閣跡/Remains of the Tenshukaku

安土城の天主閣は、完成して3年後の1582年6月に焼失しています。そうしてそのまま放置されました。1940年に初めて調査されました。その間、358年間何もされませんでした。礎石が、堆積物を退けると、綺麗に残っていました。若干の補強はされましたが、当時のそのままです。

記録から、当時6階建てで、地下1階の当時としては、群を抜く素晴らしい建物でした。ここは、地下1階部分です。しかしその大きさは、この2倍ほどの広さがありました。

この天主閣は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによればヨーロッパにある建物にヒケを取らないほどの素晴らしい建物であったと言葉を残しています。高さ33mの木造建築は日本では初めてでした。

内部は、煌びやかで、織田信長の使っていた絵師や狩野永徳の障壁画や装飾がありました。

西洋建築を参考して、八角形の天主閣にしたと言われています。織田信長は、色んな宗教に興味があったようなことが、色んなところで、散見されます。

これは、戦国時代は、命がたくさんなくなり、多くの命が失われたことに、織田信長は、何かを感じて、このような城になったのかもしれません。豪華なお城ですが、これも、時の流れには、逆らえなかったのでしょう。織田信長は、寺を構えました。禅は、無心になることです。織田信長は、宗教から多くのことを学びたかったに、違いありません。

この記事は、パンフレットからの引用があります。

The main tower of Azuchi Castle was burnt down in June 1582, three years after its completion. Then it was left as it was. It was first investigated in 1940. During that time, nothing was done for 358 years. The foundation stone remained clean when the deposit was rejected. It has been slightly reinforced, but it remains the same as it was at that time.

From the records, it was a 8-story building at that time, and it was an outstanding building for the time on the 1st basement floor. This is the first basement floor. However, its size was about twice as large as this.

According to Jezus missionary Luis Frois, the heavenly palace was such a wonderful building that it wouldn’t sink into a building in Europe. This was the first wooden building with a height of 33m in Japan.

The interior was gorgeous, and there were barrier paintings and decorations by Nobunaga Oda’s painter and Eitoku Kano.

It is said that the hexagonal heavenly palace was made with reference to Western architecture. Nobunaga Oda seems to have been interested in various religions in various places.

This may be because Nobunaga Oda felt something about the fact that many lives were lost and many lives were lost during the Warring States period, and it became such a castle. It’s a gorgeous castle, but it probably couldn’t go against the passage of time. Nobunaga Oda set up a temple. Zen is to be innocent. Nobunaga Oda must have wanted to learn a lot from religion.

This article is taken from a pamplet.

織田信長の築いた安土城跡は、天主閣ができてからわずか3年の城でした①The site of Azuchi Castle built by Nobunaga Oda was only three years after the castle tower was built ①

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織田信長が天下統一を目の前にして築いた城。1576年にできた城。標高199mの安土山に作られました。現在は、干拓によって陸地ですが、当時は、お堀の代わりに、琵琶湖の内湖(伊庭内湖、常楽湖)に囲まれていました。南側だけが陸続きでした。

天守閣は、1579年に完成しました。しかし、城主の織田信長は、本能寺の変(京都)1582年6月2日で明智光秀の謀反によって自刃しました。49歳でした。わずか天守閣ができてから3年で城主がなくなり、その後、1582年6月15日には焼失しました。

戦国時代は、激しい戦いが行われました。織田信長(1534/6/23-1582/6/21),豊臣秀吉(1537/3/27-1598/9/18),徳川家康(1543/2/10-1616/6/1)(いずれも、グレゴリオ暦、Wikipediaより)この将軍は、時にこう比べられます。

ホトトギスという綺麗な鳴き声を出す鳥がいます。このホトトギスが泣かないときどうするか?織田信長は、「ホトトギス、鳴かねば殺そうホトトギス」豊臣秀吉は、「ホトトギス、鳴かねば鳴かそうホトトギス」徳川家康は、「ホトトギス、鳴かねば待とうホトトギス」。

この代表的な将軍全員が安土城には縁があります。城主の織田信長はもちろんですが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の邸宅が、このお城にあり、その跡があります。また、1582年5月20日に徳川家康一行を安土城の江雲寺御殿にて接待しています。このお城は、すぐに焼き払われましたが、それぐらい、非常に素晴らしい威厳のあるお城だったことが、城跡からも伺えます。

A castle built by Nobunaga Oda in front of the unification of the world. A castle built in 1576. It was built on Mt. Azuchi at an altitude of 199m. Currently, it is land due to reclamation, but at that time, it was surrounded by the inner lakes of Lake Biwa (Lake Iba, Lake Joraku) instead of moats. Only the south side was connected to the land.

The castle tower was completed in 1579. However, the lord of the castle, Nobunaga Oda, was self-defeated by the rebellion of Mitsuhide Akechi on June 2, 1582, when the Honnoji Temple changed (Kyoto). He was 49 years old. Three years after the castle tower was built, the castle owner disappeared, and then it was burnt down on June 15, 1582.

During the Warring States period, fierce battles were fought. Nobunaga Oda (1534/6 / 23-1582/6/21), Hideyoshi Toyomi (1537/3 / 27-1598 / 9/18), Ieyasu Tokugawa (1543/2 / 10-16 16/6/1) (all) (From the Gregorio calendar, Wikipedia) This general is sometimes compared like this.

There is a bird called Hototogisu that makes a beautiful cry. What to do when this Hototogisu doesn’t cry? Nobunaga Oda said, “Hototogisu, let’s kill if you don’t ring” Hideyoshi Toyomi says “Hototogisu, let’s ring if you don’t ring” Ieyasu Tokugawa says “Hototogisu, let’s wait if you don’t ring”.

All of these representative generals have a connection to Azuchi Castle. Not to mention the castle owner, Nobunaga Oda, the mansion of Hideyoshi Hashiba (later Hideyoshi Toyomi) is in this castle, and there are traces of it. In addition, on May 20, 1582, Ieyasu Tokugawa was entertained at the Eunji Palace in Azuchi Castle. This castle was burned down immediately, but it can be seen from the ruins of the castle that it was such a wonderful and dignified castle.

この城跡は、低いところは、石垣を残して畑にされていました。人が住んでいましたから、かまどの跡もあります。

The ruins of this castle were used as fields in the lower part, leaving a stone wall. There are traces of bites because people lived there.

かまど跡/Kamado trace

そうして、安土城は、臨済宗京都妙心寺派(京都)の摠見寺(そうけんじ)があります。そこで、御朱印もいただけます。臨済宗は、武道より禅ができました。

Then, Azuchi Castle has the Sokenji Temple of the Rinsai Sect Kyoto Myoshinji School (Kyoto). You can also get a red stamp there. The Rinsai sect was able to do Zen from martial arts.

とてもけわしい安土城です。必ず、杖が必要です!と言われて、この杖を持って杖をつきながら歩きます。だから、体力のあるうちに訪問したいところです!もう、とても疲れました。急な石段があります。

It is a very fragile Azuchi castle. You definitely need a cane! It is said that I will walk with this cane while wearing it. That’s why I want to visit while I’m physically fit! I’m very tired. There is a steep stone staircase.

ここには、二宮金次郎の像もありました。日本のあらゆるところでこの二宮金次郎像はあります。

There was also a statue of Kinjiro Ninomiya here. There are statues of Kinjiro Ninomiya everywhere in Japan.

ここには、「人間50年は、下の仏のと比べても同じで、とても夢、幻のようにはかないこと」を書いてありました。まさに無常の世界です。私は、織田信長は、非常に冷徹で、残酷なように感じていました。事実、史実には、非常に残酷なことが多いです。しかし、このお寺や、このお城の石段を登っていくと、違う人柄が拝見できます。

It was written here that “50 years of human beings is the same as that of the Buddha below, and it is very dreamy and ephemeral.” It’s a truly unchanging world. I felt that Nobunaga Oda was very cold and cruel. In fact, historically, it is often very cruel. However, if you climb this temple or the stone steps of this castle, you will see a different personality.

石の階段は、お墓の石、そうしてこのように、仏様が、いくつも埋められています。お城では、非常に珍しいです。お城は、権力を見せつけるところですが、この安土城は、ちょっと感覚が違いました。

The stone stairs are filled with grave stones, and thus many Buddhas. Very rare in a castle. The castle is a place to show power, but this Azuchi castle has a slightly different feeling.

仏足石/Buddha foot stone

この仏足石は、崩れた石垣から発見されたそうです。これは、お釈迦様の足を表現しています。古代インドでは、信仰の対象になったそうです。日本の一番古いのは、奈良の薬師寺です。このように、隠れたところに、多くの信仰の対象があり、これは、お城、と言うより、多くの人々の命を鎮めたところだったように、私は感じました。

This Buddha foot stone is said to have been found in a collapsed stone wall. This represents the foot of Shaka-sama. In ancient India, it was the object of worship. The oldest in Japan is Yakushiji Temple in Nara. Thus, in the hiding place, there were many objects of worship, and I felt that this was a place where many people’s lives were calmed down, rather than a castle.

ここは、豊臣秀吉の邸宅の跡です。

この安土城跡は、戦国時代を象徴するようなお城です。しかし、この城跡は、放置され続けました。1926年にようやく当時の文部省の指定の史跡になりました。1932年に文部省文化財保護委員会(当時)が特別史跡に指定しました。

今回は、ここまでです。次回も興味がありましたら、ご覧ください。

This is the site of Hideyoshi Toyomi’s mansion.

This Azuchi castle ruins is a castle that symbolizes the Warring States period. However, the ruins of this castle continued to be left unattended. It finally became a historic site designated by the Ministry of Education at that time in 1926. In 1932, the Ministry of Education Cultural Property Protection Committee (at that time) designated it as a special historic site.

This time, that’s all. If you are interested in it next time, please have a look.

この記事はパンプレット、wikipediaを参考に作成されました。

This article was created with reference to Pumplet and wikipedia.

二条城見どころ実際に行った筆者が簡単に説明します.The highlight of Nijo Castle The author who actually went to explain briefly.

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1603年に江戸幕府初代将軍徳川家康の築いたお城です。1626年、3代将軍徳川家光の時に後水尾(ごみずのお)天皇を迎えるために大規模な拡張を行った。1867年には、15代将軍徳川慶喜が政権を天皇に返上する「大政奉還」をした歴史的な場所。1884年からは、皇室の別邸と利用されました。1939年に京都市が、譲り受けた。1994年にユネスコより、世界文化遺産に登録されている。また、国宝指定や重要文化財に指定されています。

写真は、東大手門です。1662年の頃の建築と考えられています。当時は、2階建でしたが、三代の徳川家光は、天皇を見下ろさないように一重(ひとえ)の門に建て替えられました。

It is a castle built by Ieyasu Tokugawa, the first general of the Edo Shogunate in 603. In 1626, at the time of the third shogun Tokugawa Iemitsu, a large-scale expansion was carried out to welcome Emperor Gomizuo. In 1867, the historic place where the 15th Shogun Yoshiki Tokugawa made a “great government repatriation” to return the administration to the emperor. From 1884, it was used as an imperial villa. It was taken over by the city of Kyoto in 1939. It was registered as a World Cultural Heritage by UNESCO in 1994. It is also designated as a national treasure and an important cultural property.

The photo is the East Otemon. It is believed to have been built around 1662. At that time, it was a two-story building, but the third generation Tokugawa Iemitsu was rebuilt into a single gate so as not to look down on the emperor.

これは、唐門と呼ばれ、二の丸御殿の正門にあたり、切妻造で、ひのきの皮を屋根にしています。門には長生きを意味する「松竹梅に鶴」聖域を守護する「唐獅子(からじし)」など、とても豪華な造りです。2013年に改修されました。

This is called Karamon, which is the main gate of the Ninomaru Palace, and is made of gable and has a hinoki skin as a roof. The gate is very luxurious, such as “Shotake Ume ni Tsuru” which means longevity and “Karajishi” which protects the sanctuary. It was renovated in 2013.

東西から北西にかけて、遠侍(とうさむらい)、式台(しきだい)、大広間、そてつの間、黒書院、白書院の6棟が立ち並ぶ御殿です。部屋数33室、畳800枚、の広さがあります。内部は撮影禁止なので、ここでは写真は、外部のみです。入ると下駄箱がありここで、スリッパには着替えます。ここで印象的なのは、廊下に入る時に大きな木があります。それは、たくさんの人が出入りするので、角がありません。綺麗に丸くなっています。これは、摩擦でこのようになっています。そこをよく観察してください。そこには、10cm四方の木がはめ込まれて、補修されています。これは、かなり前にされたもので、不明です。今は、国宝(1952年)に指定されているので、このような補修はできません。廊下は、釘のさし方が特徴的です。「うぐいす張り」と言って、忍者などが、入ってもわかるように、キシキシと音が鳴ります。そうやって、不審者が、入らないような廊下が、部屋の周りを取り囲んでいます。

そうして、大広間は、権威を持ったトップの人が座る天井は、一段と高くなっています。そのようにして、威厳を保っていました。

格によって、描かれている襖絵が、違います。身分によって、絵柄は、違います。そこには、必ず、2つの部屋がセットされています。これは、日本の「ハレ、ケ」の伝統です。つまり、普段の部屋と華やかな日の部屋と分かれています。

ここで印象的なのは、海外からの植物、そてつがあります。そてつは、庭にも植えられており、今も見ることができます。ボタンの花の絵柄は、非常によく描かれていて印象的でした。

また、大政奉還が行われたことがよくわかるところがあります。この引き戸の金具が、徳川家の紋があったり、皇室の紋があったりします。これは、外回りは、徳川の紋が多く、奥にいけば、皇室の紋が多いです。当然ですが、外回りでも、最初にお話した唐門は、皇室の紋が入っています。

サムライが再現された人形があります。これは、非常に当初の時代考証がされてできています。畳1枚づつ離れたところに将軍に向かいサムライは、規則正しく座っています。正座は、必ず、右足の親指が上になって座ります。これは、何かあれば、すぐに立ち上がれるようにそのように身構えて座ります。普段は、左に刀をさしています。大太刀(おおたち)、小太刀(こたち)。しかし、書院では、脇差しで、持っていました。

ですから、このサムライ人形も良く観覧してください。鶯(うぐいす)のように鳴く床を踏みしめながら、この33室を観覧するのは、非常に面白いものです。

From east to west to northwest, there are 6 buildings, Tousamurai, Shikidai, Large Hall, Sotetsu no Ma, Kuroshoin, and Shiroshoin. It has 33 rooms and 800 tatami mats. Since shooting is prohibited inside, the photos here are only outside. When you enter, there is a clog box where you can change into slippers. What is striking here is the large tree as you enter the hallway. It has no corners as many people come and go. It is nicely rounded. This is due to friction. Please observe it closely. A 10 cm square tree is fitted and repaired there. This was done a long time ago and is unknown. Now that it is designated as a national treasure (1952), such repairs are not possible. The corridor is characterized by the way nails are inserted. Saying “Uguisu tension”, a kissing sound is heard so that ninjas and others can understand it even if they enter. That way, a corridor that keeps out suspicious people surrounds the room.

Then, in the hall, the ceiling on which the authoritative top person sits is even higher. In that way, he maintained his dignity.

The drawn fusuma picture is different depending on the case. The design is different depending on your status. There are always two rooms set there. This is the tradition of “Hare, Ke” in Japan. In other words, it is divided into a normal room and a room for a glamorous day.

What is impressive here is the plant from overseas, Sotetsu. It is also planted in the garden and can still be seen. The button flower design was very well drawn and impressive.

In addition, there is a clear indication that the Great Government was repatriated. The metal fittings of this sliding door have the Tokugawa family crest and the imperial crest. This is because there are many Tokugawa crests on the outside, and many imperial crests in the back. Of course, even on the outside, the Karamon that I talked about first has the imperial crest.

There is a doll that reproduces the samurai. It is made from a very early period proof. Samurai sits regularly, facing the general one tatami mat away. Always sit upright with his right toe up. It sits that way so that if anything happens, you can get up quickly. I usually point my sword to the left. Large swords (Otachi), small swords (Kotachi). However, at the Shoin, I had it by my side.

Therefore, please take a good look at this samurai doll. It is very interesting to see these 33 rooms while stepping on the floor that crows like a bush warbler(Uguisu).

清流園。京都の豪商、門倉家から譲り受けてできました。1965年。ここには、そてつがあります。和洋折衷の庭です。(日本の文化と西洋の文化が混じっていること)日本は、良いものを取り入れる文化が、垣間見えます。日本は曖昧の文化古典から読み解く。Japan interprets from the cultural classics of ambiguity.

これは、御殿でそてつの部屋がありました。

Clear stream garden. It was inherited from the Kadokura family, a wealthy merchant in Kyoto. 1965. Here is the sword. It is a Japanese-Western mixed garden. (A mixture of Japanese and Western cultures) Japan has a glimpse of a culture that incorporates good things.日本は曖昧の文化古典から読み解く。Japan interprets from the cultural classics of ambiguity.

This was a room in the palace.

また、季節に関係なく赤い紅葉を楽しむことができます。この珍しい紅葉も襖絵に描かれていました。

You can also enjoy the red autumn leaves regardless of the season. This rare autumn leaf was also drawn in the picture.

北中仕切門(きたなかしきりもん)内堀の南側にあります。1626年ごろの建築。本丸西櫓門(ほんまるにしやぐらもん)への通路をふさぐ防衛上非常に大事な門です。背面の屋根だけが伸びるという変わった構造になっています。

門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから、「埋門」(うずみもん)と呼ばれる。この門は、石垣に囲まれて開口だけのものもあり、姫路城が有名で、高松城にもある。

Kitanaka Kirimon is located on the south side of the inner moat. Built around 1626. It is a very important gate for defense that blocks the passage to Honmaru Nishiyaguramon. It has an unusual structure in which only the roof on the back extends.

It is called “Uzumimon” because it is surrounded by a clay wall and a stone wall that stands on the gate. This gate is surrounded by stone walls and has only an opening, and Himeji Castle is famous, and it is also in Takamatsu Castle.

これが本丸櫓門(ほんまるやぐらもん)1626年建築。本丸西櫓門(焼失)と共に本丸を防御する重要な門。戦時には、木橋を落として敵が渡れないようにし、さらに銅板で覆われた扉を閉めて主に火の敵に備えました。

本丸には、水の補給のできる井戸、食料を蓄える米蔵もあるので、立てこもることもできる。内側の土塀に見える穴は、鉄砲で攻撃する物です。驚くことは、1626年、3代将軍徳川家光の時に後水尾(ごみずのお)天皇を迎えるために大規模な拡張を行った。

この時は、天皇は2回天守に登られたが、その時は、木橋は2階建てで、二の丸御殿から橋の2階の畳の廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行ったことです。これは、天皇家では、後水尾(ごみずのお)天皇だけです。2階橋の一部は1930年まで残っていました。その後は、解体され、その部分は、土蔵に保管されています。

This is the Honmaru Yaguramon, built in 1626. Honmaru An important gate that protects Honmaru along with the West Tower Gate (Burned down). During the war, the wooden bridge was dropped to prevent enemies from crossing, and the door covered with copper plate was closed to prepare mainly for fire enemies.

The main enclosure also has a well for replenishing water and a rice brewery for storing food, so you can stand up. The hole visible on the inner wall is what you attack with a gun. Surprisingly, in 1626, at the time of the third shogun Tokugawa Iemitsu, a large-scale expansion was carried out to welcome Emperor Gomizuo.

At this time, the Emperor climbed the castle tower twice, but at that time, the wooden bridge was a two-story building, and he went from the Ninomaru Palace through the tatami corridor on the second floor of the bridge to the castle tower without walking on the ground. is. This is only Emperor Gomizuo in the Emperor’s family. Part of the second-floor bridge remained until 1930. After that, it was dismantled and the part is stored in the storehouse.

日本で、古来から天皇は別格だった様子がうかがえますね。徳川家は、膨大な富を築き、今の皇居のところから撤退する時に、膨大な富を隠しています。いまだに、その富は、どこにあるのか、わかっていません。

二条城を拝見してもその徳川の大きな富を感じることが、十分できます。そうして、大政奉還という、大きな権力の譲渡をされ、その舞台になった二条城は、大きなロマンと時の流れは、巨万の富を持っていても、それは、役に立たないことを示しています。

まさに、運命を感じることができる場所です。色んな時の流れを感じながら、人生には「運」という存在があることを思い知らされます。私たちにも、一人ひとり、人生があります。時に、「運」が悪い時も、あります。しかし、こんな大きな富と権力を持っていても、時の流れには、逆らうことができません。人生、しなやかに生きたいですね。

一部、パンプレットからの引用があります。

You can see that the emperor has been exceptional in Japan since ancient times. The Tokugawas have built enormous wealth and are hiding it when they withdraw from their current imperial residence. We still don’t know where that wealth is.

Even if you look at Nijo Castle, you can fully feel the great wealth of Tokugawa. Then, Nijo Castle, which was given a great transfer of power called the Great Government Repatriation, shows that great romance and the passage of time, even if it has huge wealth, is useless.

It’s a place where you can feel your destiny. Feeling the passage of time, I am reminded that there is “luck” in life. Each of us also has a life. Sometimes, “luck” is bad. However, even with such great wealth and power, we cannot go against the passage of time. I want to live lithely in my life.

There are some quotations from pumplets.

鹿児島観光スポット、桜島を訪ねる。Visit Sakurajima, a sightseeing spot in Kagoshima.

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今回は、鹿児島観光なら、やはり「桜島」。今も活動して、時折噴火している桜島。そんなところだから、火山灰の大地で、大きな膨れ上がった「桜島大根」ができます。

手のひらより大きな大根を薄くスライスしてお漬物にしたりします。塩と少し薄く甘い味をつけたもの、味噌味のものなどがあります。

私が、最も印象に残った、お土産は、「椿油」です。髪の毛は、もちろんですが、ボディにも使えます。「椿油」が、産直品でお手軽に購入できます。一升瓶(1.8L)の椿油も販売されていました。この油で、調理するのでしょう。とても贅沢なお土産です。

また、火山の島、ですから、軽石も売っていました。これは、身体に硬い皮膚がある時に、硬くなった皮膚を入浴中の時、柔らかくなった皮膚に擦り当て擦り落とします。いろんなお土産がありますので、ぜひご覧になってください。

桜島は、何回か足を運びましたが、展望台は、良い天気に恵まれませんでした。

これは、桜島フェリーの入り口です。

桜島フェリーの雰囲気を味わってください。

帰りは、裏手の橋を渡ったこともありました。裏の景色は、噴火の火が夜間になると見えることもあるようです。橋を渡れば、漁港がありのんびりした景色が伺えます。

今回は、桜島のレポートでした。桜島フェリーは、料金もそう高くはありません。とても回数が多いので、観光するのに、使うと、時間が効率よく使えますので、是非、お気軽に使ってみてください。美しい桜島でした。

鹿児島観光スポット、東郷平八郎の像で国土を守る大切さを知る。Learn the importance of protecting the land from the statue of Heihachiro Togo, a sightseeing spot in Kagoshima.

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多賀山は、山上から鹿児島市のほぼ全域が望めるとても景色の良いところです。ですが、地元の人以外は、知らないところで、ここを訪れる人は、少ないところです。

石橋記念公園に隣接する多賀山に東郷平八郎の墓所があります。この場所に選ばれたのは、鹿児島湾に入る艦船から中央に見える場所で、東郷平八郎を海軍に進んだ薩英戦争の遺跡、大砲台跡が真下に見える場所だからだそうです。

「国が栄えるのも、敗れるのもこの一つの戦いにある、各員一層努力せよ」1905年艦隊の司令官、司令官長の乗っている三笠にZ旗(国際信号旗)をつけて、日本海海戦が始まりました。

東郷平八郎は、連合艦隊司令官長としてこの海戦を指揮しました。丁字戦法によってとても強いロシアバルティク艦隊を全滅させました。

1847年鍛冶屋町に生まれ15歳で薩英戦争に参加しました。強い海軍を人生の目標とした少年は、イギリス留学した後、海軍の増強に心を注ぎ、「世界の名将」と言われるようになりました。

年老いて、東宮学問所総裁を務めた東郷元帥は、1934年、88歳で亡くなりました。

国葬によって多摩墓地(東京)に埋葬されました。多賀山には、元帥の遺した髪の毛が、葬られました。そうして、銅像が建てられました。

ここには、このような言葉が刻まれています。

東郷元帥の碑

東郷元帥に聖将の名を贈れば固く辞退するでしょう。謙譲であることは、徳であり、これは、大切な性格の一つだからです。しかし、国の名将と呼ぶなら元帥は断ることは、できない。

なぜなら、海上決戦においてこの日本を救った2大監督は、日本の東郷平八郎とイギリスのネルソンであると、世界が公認しているからです。

1905年5月27日、連合艦隊の司令官長の東郷平八郎は、戦艦、三笠の壇上で「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力(気力を奮い起こして頑張ること)せよ。」の信号を出して目標を高く持ち、敵の艦隊を対馬水道で待ち受け、各員は東郷元帥に統一され、見事に敵は撃滅し、大勝して、「皇国興隆(国が栄えること)」の基本をこの戦いに規定しました。

まだ有名でもないただの一般人として、1847年2月22日、鹿児島県鍛冶屋町に、東郷吉左衛門の4男として生まれた仲五郎が、日清戦争中、軍艦、浪速の艦長として活躍。

イギリス高速艇の撃沈事件に東郷元帥の英断と国際法的教養を持つことによって、「皇国の興廃この一戦にあり、客員一層奮励努力せよ。」と歴史に残る言葉を発した。

そうして、日露戦争で歴史的に表彰される事柄を成し遂げました。その後、東宮学問所の総裁を務め、日本の成長に貢献する大人物の生涯になるとは、非常に驚きです。

青少年の時、西郷隆盛より教育を受けた。17歳の時、薩英戦争で国を守ることを認識しました。明治維新には、函館の海の戦いをして、24歳に帝国海軍見習い士官になり、25-32歳の8年間をイギリスに留学して、兵理学法実際を修学して、日本に帰り、艦長、司令官、を歴任しました。

そうして、監督になる気質を磨きました。

その間に、病気に何回もなり、苦しんだけれども、これは、病気に負けない闘志と、人間としての道徳を得るきっかけとなりました。そうして大きく成長しました。

東郷元帥は、一人の将軍であったが、成功してこのようになり栄えた人生でした。これは、簡単に達成できる、ものではない。

ネルソンの像がイギリスの首都、ロンドンの繁華街にあるのも一つの方法である。

東郷元帥の像が、故郷に建ち、眺める様は美しい。1957年5月27日。

人、一人しか通れない階段を登ればそこに東郷平八郎の像があります。

しっかりと鹿児島湾を見渡して建っています。日本の最南端だった鹿児島県。(今は、沖縄)ここには、国防して、国境を守るという、強い日本の意志を感じることができます。

時に、理不尽なことが国境では起こります。これは、非常に憂慮すべきことです。

だから、自分の国は、自分で守る。そんな強い決断と思いを感じる場所です。平和は、国民と国土があってこそ、感じることができる、必要にして、最低限の条件だからです。

日章旗を嫌う、人もいます。ですが、国土がなければ、国民は幸せを感じることはできません。国を守る。大切なことだと感じます。

戦争は、人々を不幸にします。だから、幾度の苦難があっても、心を曲げることなく、しっかりとした「道徳」があれば、戦うことなく、互いに、理解できると思うのです。理想論だとは、思うのですが、現実は、悲しいことの連続です。

戦艦「三笠」が、神奈川県横須賀市に保存されています。見学もできるようです。興味ある方はどうぞ。

鹿児島観光スポット、石橋記念館と西郷隆盛を訪ねる。Visit Kagoshima sightseeing spots, Ishibashi Memorial Park and Saigo Takamori.

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鹿児島市の中心を流れる甲突川には、上流から、「玉江橋」「新上橋」「西田橋」「高麗橋」「武之橋」のアーチ橋が、5つあり、「甲突川の五石橋」と呼ばれていました。

これらの橋は、1860年ごろ薩摩藩の城下町として整備されたものです。薩摩藩の財政は、豊かでした。その建造にあたったのが、岩永三五郎が、熊本県から招かれました。

主に、中国から伝わった架け橋技術。それと、城の土台になる石垣技術。この二つの技術が交わり、独自に発展をした日本を代表する5つの石橋で、150年間、実際に使われていました。

1993年8月6日の集中豪雨により、2つの橋は流され、残り3つの橋が無事に残りました。その3つの橋も、破損が激しかったのです。

甲突川を改修工事するときに、非常に多額のお金をかけて、3つの橋が、復元、移築されました。2つは、祗園之洲公園に移設、写真の橋は、石橋記念公園の中にあります。そこには、石橋記念館があります。

復元されたものですので、一つひとつ、丁寧に組み上げられました。轍(わだち)や、石の継ぎ合わせられたところもあり、非常に丁寧に復元されています。

このように、一つひとつ補修されて組み上げられています。

当時の技術で、石をこのように丸い筒状にするには、非常に高い技術が必要でした。

これは、「西田橋御門」です。隣接している祇園之洲公園には、西南戦争の戦没者慰霊碑や砲台の跡があります。

Ishibashi Memorial Park

近くには、フランシスコザビエルの記念碑があります。1549年日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン出身のキリスト教宣教師。

ザビエルが、鹿児島に来て初めて渡ったとされる橋が、この公園の近くにあるそうです。

来日したザビエルは、日本語を鹿児島で習得しましたが、地方訛り(方言)のある日本語を習ったために、キリスト教を伝えるために、日本国内で活動するのに、苦労したそうです。

そんな話が、この鹿児島では、語り継がれています。近隣には、韓国兵の慰霊碑もあります。近隣諸国との関係は、非常に難しいものを感じます。

西南戦争とは、1877年2月15日から9月24日まで続いた日本国内の最後の内戦。「明治維新」を推進した西郷隆盛が、起こした戦争。これにより、武士という制度が無くなった。

西郷隆盛の像。鹿児島市内にある。

山手の方にある「西郷隆盛洞窟」西郷隆盛が、政府軍に追い詰められてこの洞窟に身を隠したとされる。

内部の洞窟の様子です。

ひっそりとして、訪れることも少ない西郷隆盛の終焉の地。「晋(しん)どん、もうここでよか」

2弾の銃弾が、西郷隆盛の腰と大腿部に撃ち剥きました。城山洞窟を出てわずか300m,650歩で動けなくなりました。

「晋どん、もうここでよか。」東を向き、皇居に平伏し、拝む西郷隆盛に別府晋介(切腹する人に付き添って首を切り落とす役人)によって、首を振り落とされました。

1877年9月24日。

西郷隆盛を敬愛し、私学生徒を中心とした反政府勢力となった薩軍は、2月15日に熊本に50年ぶりの大雪に軍を進めました。それは、70日に及びました。熊本城の攻防、田原坂の戦に敗れ、人吉、宮崎、延岡、に追われ、軍は解散した。軍の幹部は、故郷の鹿児島を死に場所に選び、山脈を伝うような非常に苦難をして、鹿児島に戻った。

岩崎谷の銃声がなくなり、西郷隆盛の死体が発見された時、政府軍の総司令官、山県有朋(やまがたありとも)中尉は、「翁は(相手を敬う言葉)、まことの豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ。」と言葉を残しました。そうして、長い時間黙祷したそうです。

西郷隆盛洞窟から山手に登ると、城山がある。ここからの眺めは、非常に良い。錦江湾と桜島が眺められる。一度は、行って見たいところです。ここで、西南戦争の最後の戦いが行われました。

巨万の富を持った、薩摩藩。最後はこのようにして政府に吸収されました。

鹿児島観光旅行お土産、薩摩切子見学。Kagoshima sightseeing trip souvenir, Satsuma Kiriko tour.

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今回は、薩摩切子のことを書いていこうと思います。お土産としては、高価ですが、見学するだけでも、とても楽しい所です。まずは、工房が一般公開されていますので、どうやって薩摩切子が、生まれるのか、見ていきましょう。

まず、ガラス素材を鉄の管の先にいれ、高温にて、息を吹き入れながら、膨らませていきます。

とても高温な作業で、危険も伴います。色んな器具で整形していきます。

全部の工程は今回は、していませんでした。手作業によって一つひとつ、作られます。一番大切な工程は、絵付です。

このように、熟練の技師が、丁寧に仕上げていきましす。

「島津紫」を発見!「島津紫」については、後からご説明します。

多くの過程を経て、薩摩切子は、仕上がります。

日本の色んなところに切子がありますが、「薩摩切子」は、紫色にこだわりがあります。

この紫には、歴史があります。従来の色は、マンガンやニッケルを調合して発色されていましたが、28代の斉彬の時代に、金とコバルトを調合することによって紫色を出すことに成功しました。

この調合により、透明感のある鮮やかな紫の「島津紫」の「薩摩切子」は、とても貴重なものになっています。

1,000,000円、2,000,000円するものは、絵付がデザイナーによってデザインされているので、お値段がお高くなります。薩摩切子は、元々お値段は、お高いですが、デザインされているので、ますますお高くなります。

良いものを見ることは、とても良いことです。島津家の販売する薩摩切子は、格式が高いので、お値段は非常に高いです。

今回は、薩摩切子と「島津紫」の美しさを堪能していただけたと思います。制作する工程も職人が丁寧に仕上げているので、安心できますね。

日本全国に切子はありますが、「島津紫」の薩摩切子は、とても印象に残りました。なかなか、購入するには、勇気のいるお値段ですが、見学するだけでも楽しいです。

オーダーできるようですので、注文して完成まで待つ楽しみもあると思います。

表紙の写真は、日本の文化庁に登録されている旧薩摩藩の工場の事務所で、登録有形文化財(第46-0005号)。現在は、それをスターバックスコーヒーがここで営業しています。私はここで、休憩しました。とても居心地の良い空間でした。

観光スポット霧島神宮、さざれ石を見つけた。Sightseeing spot Kirishima Jingu, I found a sazare stone.

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今回は、鹿児島県霧島市にある霧島神宮です。霧島神宮の周りには、霧島温泉があります。以前は、霧島温泉に泊まりました。なんとその温泉宿は、薔薇の花びらを一面に浮かせてありました。とても優雅に温泉を楽しみました。その時は、Bookingでホテルを予約しました。検索してみましたが、ホテルの名前を覚えていないのが、残念です。たくさん温泉宿もあるので、色んなサービスがあると思います。日帰りで、1日貸しの温泉宿も数多くありますので、宿泊予定のない方は、温泉を楽しみたいときは、そういう施設を利用すると良いでしょう。

道沿いに自動車を駐車することができます。秋は、紅葉の季節。霧島神宮は、橋を渡って階段を登ります。そこに参道があります。霧島神宮の入り口です。

国宝指定です。とても華やかな霧島神社です。

招霊木(Ogatamanoki)です。魂を招き入れる木です。苔が生えていて、風格があります。

手水舎。ここで手を清めます。お参りするには、ここで身を清めます。お花が添えられていて、とても、美しいです。

「日本の国歌」の歌詞にある「さざれ石」。この石は、学名を石灰質角礫岩です。石灰石が、雨水に溶解してその石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状体隣、地下に置いて小石と結集して次第に大きくなる。やがてそれが地上に顕て国歌の歌詞のように1,000代、8,000代、年を経て「さざれ石」厳しく、正しいその有様は、年月が、苔がつく、そのような姿は、非常に、めでたい状態で、喜ばしい限りです。この石は、国歌発祥の地である岐阜県揖斐郡春日村の山中で発見されたもので、その集積の過程の状態はこの石を一見してよくわかる。この文章は、1962年文部省の中に贈呈された「さざれ石」の木札に書かれていたもの。国歌の歌詞に出てくる「さざれ石」については、岐阜県揖斐川町出身の小林宗一(号宗閑)氏によって、発見解明されました。

私は、この「さざれ石」を求めて、岐阜県に行きました。そこは、樹木で鬱蒼としており、車1台がやっと走れるくらいの道沿いに寄り添うように川がありました。そこに国歌に出てくる「さざれ石」があったそうです。鹿児島県、霧島市でこのように、幻の「さざれ石」を見れたことは、とても嬉しかったです。霧島神宮に行く機会がありましたら、是非、ご覧になってください。

この木は、「御神木」(Goshinboku)と言って大切なものです。種類は、メアサ杉、樹齢800年、高さ38m、幹廻7.2m。

ここで本殿でお参りします。正面を左に行くと、奥にもう一つひっそりと神社があります。山道の両脇には湧水が流れています。

若宮神社。とても小さいですが、皆さまお祈りをしています。願い事を書いた木札もたくさんあります。

今回は、鹿児島県霧島市にある霧島神宮をご紹介しました。本殿は、非常に手の込んだ建物で、高い場所にあります。展望台もありますので、景色を楽しむのも良いと思います。これを読んで、いただきまして、皆さまが、楽しんでいただけたら、とても嬉しいです。

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