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日本の教育の現状と問題点

日本の教育の現状と問題点


戦後、GHQの指導の中、学制改革が行われ、6・3・3・4制(小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年)が導入されました。


1947年アメリカの学習指導要領は、Course of Study を参考にして作られたが、1950年代には、教育政策の修正によって旧文部省が告示する法的拘束力のあるものへと変化していきます。


学習指導要領は、10年に1回のペースで改定されてきています。


1998年には、ゆとり教育が実施されました。週5日制になり、教科書もこの改訂により、日本の教科書が最も薄くなった、時代です。これは、10年間に及びました。


このことは、私学学校では、薄くなった学校教育を行うことなく、古い分厚い教科書で授業展開しました。これにより、日本でも私学志向が強くなる原動力になりました。


今では、教育熱心な家庭は、私学学校に進むようになり、これは、金銭的学力へ弾みをつける結果になりました。これは、教育やあらゆることが二極化していく、通過点の一つになりました。


日本の教育は、基礎学力が高いと言われています。読み書き、算数などの基礎学力を身につけることに力を入れています。そのため、日本の学生は、国際的な学力テストでも、高いスコアを獲得することが多く、基礎学力が高い点が特徴です。


算数については、今でも、そろばん学習が、個人の習い事として、多くみられます。数字を可視化することによって、10進法の数字は、基礎が、5を基本に10進法が、成り立っていることを体感して、数字を素早く、計算できるようになります。


これは、暗算ではなく、論理的に基づくものです。これにより、透明算盤と言って、目に見えない空間をそろばんをイメージしてコマを弾いて、計算できるようになり、やがて、頭の中で、イメージして計算が素早くできるようになります。


このような非常に優れたそろばんという、文化があることは、間違いなく日本の教育水準を上げることになるものです。


日本に一時期「2,000円札」が海外を見習ってできたことがありますが、非常に評判が悪く、自然と淘汰されてなくなりました。


これは、日本の算数の基礎が、そろばんによるもので、10進法は、基本の5で成り立っていることが、周知されていることが、大きく影響されたものだと考えられます。


日本は、お札は、「1,000円」「5,000円」「10,000円」で成り立っています。非常に合理的であり、この成り立ちは、硬貨にもみられます。硬貨は、「1円」「5円」「10円」「50円」「100円」「500円」です。見事に、10進法の5を基本とした無駄のない構成となっています。


日本の学校では、時間厳守や挨拶など、規律正しい態度を身につけることが重視されています。これは、社会に出てからも、役立つ能力として評価されています。


日本の教育において、学校の先生は、学力を身につけることだけを教えるのではありません。時に、生徒との距離を縮めるために、早朝から学校の門や通学路に立ち、先生が生徒に「おはようございます」と声掛けすることも多いものです。


このように、先生が声掛けをすることにより、生徒自ら、自発的に、挨拶の大切さを自ら学びます。挨拶は、人間関係の基本でもあります。社会生活には、欠かせないものです。


私は、家庭内で、挨拶に関して、このように学びました。「挨拶は、先にした方が、勝ちだから、積極的に挨拶をしなさい」と。私は、挨拶を積極的にすることは、この教えが、大きいです。


このように、日本では、「挨拶の大切さ」を自然と学ぶ習慣が、たくさんあります。個人差はあると思いますが、日本の教育は、挨拶から始まり、その人間関係から広がった礼儀正しさは、時間厳守や規律正しい態度になっていくのでしょう。


このように先生は、非常に重い責任があります。このようなことから、先生というのは、激務です。


しかしながら先生は、子供を社会的に通じる人間として育てるために、学校の周りに、社会生活に関しての教えを文章にて、看板にして、学校の周りにたくさんの教えの書いた看板を掲示したり、学校出身者で成功者がいれば、その教訓を学校の周りに掲示したりして、社会に役立つということは、どういうことなのか、非常に具体的に、間接的に、教えを広める活動も、たくさんみられます。


学校関係者は、非常に重責ですが、社会的使命を持っておられる先生は多く、この好循環は続いています。


しかしながら、教育とは、学習だけにとどまらず、多くのことを負担することが多い先生は、非常に激務であり、これは、社会問題になっているのが、現状です。


日本の高校卒業後の進学率は非常に高く、多くの若者が高等教育を受けています。これは、個人の能力開発や社会貢献に繋がるという点で評価されています。


日本の教育は、二宮金次郎の像がいまだに多く設置されており、勤勉であることの大切さを今も受け継いでいます。このことからも、教育の大切さを、非常に具体的に体感することは、多いものです。


学校の二宮金次郎の古くなった像は、廃棄されることはなく、先日も、私の居住近くで不要になった二宮金次郎の像をオークションで買い取った社長が、駐車場に設置したそうです。


このように、勤勉であることを大切にする思想は、日本国民が大切にしており、これは世代を超えて受け継がれています。


日本の学校では、体育祭や文化祭など、様々な学校行事を通じて、協調性や自主性を育むことができる機会が豊富です。


学校では、行事を通じて、勉強だけではなく、体育祭では、スポーツでヒーローになれる機会があります。これは、勉強だけではなく、スポーツや肉体的に秀でた学生を活躍することができる機会です。


勉強だけではなく、他の良いところも評価される良い機会があります。また、みんなで作り上げる体育祭では、器械体操など、協調性も養われます。


文化祭は、自ら学ぶことをみんなで作り上げることから、これらは、非常に有効な学校行事です。


日本の学校は、比較的安全な環境で学習できるため、学生は安心して学校生活を送ることができます。日本の学校では、保護者であっても、容易に学校に入れません。


ちゃんとした理由と意思を示して、学校が許可した者だけが学校の敷地内に入ることができます。このようなことから、安心、安全な学校環境が保たれています。


日本の教育は、暗記中心の詰め込み教育になりがちで、思考力や想像力を育むことが難しいという指摘があります。これを解消するために前述のゆとり教育が実施されたが、うまく機能しませんでした。


これらの問題は、非常に解決が難しい日本の歴史にあります。よく教科書問題で、歴史問題が、過去に出てきた時期があります。日本は、この教科書問題が蔑ろにされているために、歴史から、物事を解決する術を学ぶことができません。


このことから、問題解決能力が、劣っているように見受けられます。社会科は、単に暗記する教科になり、これは、暗記だけをすれば、教科の単位を取れてしまうという、詰め込み教育につながります。


物事には、道理があり、どうやってこれを過去を解決したのか、これを明白にしなければ、なかなか、物事がわかりにくいのです。


これは、非常に繊細な問題なので、これ以上、明白にはしませんが、社会科という教科は、もっと改善の余地があり、生きる力を養うことができる、教科なのですが、日本の教科書問題があり、問題提起力や問題解決能力など、育むのに非常に、困難を極めるのです。これは、なかなか、難しい問題であります。


個々の生徒の個性や能力の違いを考慮せず、全員が同じカリキュラムで学習する画一的な教育が中心であるという問題も指摘されています。


日本の憲法にも定められている国民の平等と学習機会が、相互にリンクされています。これらは、れっきとした独立したものであるのであるが、これが混じり合い、教育の混乱が生じています。


ゆえに、公的教育に満足できない者は、私学教育にいくことになります。


けれども、社会の受け皿として、規格外の子供に教育を受けるところがなく、これは、大きな損失になっています。今一度、平等とは何か、学習機会とは何か、憲法の解釈をもう一度、見直して、日本にとって、もっとも良い教育とは何なのか、見直さなければ、日本の将来は、明るくないでしょう。


大学入試競争が激化しており、受験勉強に多くの時間を費やすことが求められるため、学生の心の健康やゆとりが失われているという問題があります。これに関しては、若者の精神疾患の増加がみられます。


これは、学校として、講義や社会的差別をなくす試みがなされています。しかしながら、これは、なかなか、解決が難しいものであるので、将来の労働力の欠落にも繋がる大きな問題なので、これは社会的に対処する必要が求めれるが、非常に困難を極めています。


まとめ


このように日本の教育は、世界的には、教育水準は高いが、多くの困難も抱えながら、運用されています。

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