私は、母を実家で介護しています。母は、もう、92歳で気丈な性格である。しかし、年齢と精神は、乖離する。したいことが出来ないもどかしさがあるようなのです。だから、なるだけ、自分で身の周りをしたいと思うけれども、できないことが多数ある。老いる悲しさと、諦めの境地を行ったり来たりしているような感じだと感じるのである。
今更、だけれども、父のクレジットカードの代理人の手続きとか、あらゆる事務作業がある。その上で、母の身を介護しています。それに、高齢猫の世話もしている。高齢猫は、時々、トイレを失敗するようになり、周りを汚すのです。だから、お風呂にトイレを置いて、粗相をしても、大丈夫なようにしている。夏場は、ベランダにトイレを置いていたのである。
歳をとるということは、めでたいようであるが、本人もできないことが増え、これは何処か、遠慮がちになる。あれほど、元気だった母は、「猫が死んだら、施設に入ろうかな?」って言ったのである。私は、「ここは、自分の家だから、いつまでも居て良いのですよ」って、私は話した。そうしたら、答えは、なかったけれども、これは多分、私の心を知りたかったのか、それとも、自分のことをどう感じているのか、を確かめたかったような気がしています。
確かに、私は、この介護は、先の見えない介護で、自分自身も、かなり自制していることも多い。私は、この生活を正確に記録するために、母との料理を更新して、これを記録しておきたいから、このようにブログを書いているのかもしれない。時間は、有限だから、この生活を周りは、どう思っているかわからないけれども、私は、やっぱり、「天命」っていうのはあって、私は、両親が幸せに最期まで、お世話するのが私の与えられた役目だと思うのです。
自分も若くないから、人生がすり減っていく感じもする時がある。けれども、いろんな状況がこのようになるのが、一番だと思うしかないのです。多くの高齢者がいる日本で、自分だけが「特別に」不幸だとか、思う必要もないし、そういう考えは、自分で、自分を惨めな存在であると、決めつけることになる。だから、深く考えないように、している。人と比較をすれば、あの人はいいな、とか、この人は、自分より、大変だとか、いろんなことを思い、そうして、自分の立ち位置もわからなくなる。
だから、自分は、自分でしかないのだし、これは、人と比較しても仕方がない、って思うことにしている。人と比較することは、優劣をつける行為である。これは、やめた方が良い。自分は、自分で、それ以外の何者でもない。だから、人を羨んでも仕方ないことである。
介護する方は、大変だけれども、介護される方も、多分、悔しかったり、限界を感じて、悲しかったりするのではないかと、思うのです。だから、お互い、これは、心を通じ合い、これは、不幸なことではなく、介護っていうのは、お別れの一歩前の「儀式」のような気がする。長い期間の儀式で、心疲れる人も多いかもしれない。けれども、これは、確実に、時間が有限な限り、いつかは、別れる時がくるのです。
だから、私は、人生をこうやって過ごすことは、そう「不幸」だと思わないようにしている。今は、時間が思い出を綴ってくれているのだと、思うことにしている。
介護で、疲れた人が、この文章を読んでくれて、親も苦しいし、子も苦しい、だから、その間に生まれる心は、とてつもなく、かけがえのない、時間と、心を、一緒に歩む人生を綴っていうのだと、感じてほしいと思うのです。
時間は、戻りません。悔いのない、人生の時間を送りましょう。きっと、誰かが、あなたを陰ながら、みている人がいますから。人生は、そう捨てたものではないですから。
今日も、一日、ありがとう。
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